道竅談 李涵虚(142)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(142)第十六章 先天とは何か

また、これらを真気、真神、真精とすることもあるが、これらは自らが修丹をなす場合に「先天」となるものである。もし修行者が、真機を知ることなく段階を踏まなければ、どうしてこの至宝を求めることができるであろうか。ここで述べている「先天」はその存在を知っても使うことのできないものである。それを使っていても、その存在を知ることのできないものである。つまり丹士は致虚となり、守静をして、修真をしようとするのであるが、それは無から有を生じさせるようなものなのである。まさにこの時にである。三一の道が分かれて自然とひとつになる。「神」は「神」ではない「神」となり、「精」は至「精」の「精」となり、気は真一の「気」となるのである。これが三である。

〈補注〉元気、元神、元精は真気、真神、真精でもある。神仙道で使われるのは後天の気や神、精ではない。あくまで先天の「気、神、精」でなければならない。先天を用いるとは特別な技巧を用いないということである。意識をもって気を運んだり、特別なイメージを持つことで神を制御したり、導引などで精をコントロールしたりすることはあくまで二次的なものに過ぎない。先天を用いるには後天によるほかないが、「致虚」「守静」を守ることがなければ後天は後天のままで先天にいたることはできないのである。

 

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