道竅談 李涵虚(112)第十三章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(112)第十三章 内薬と外薬

ただ西派ではこれだけで修行は終わらないとしている(これは西派だけではなく神仙道で広く言われていることでもある)。第三の段階の「外薬を食して内薬と合わせる」では「本来の自分」が出て来なければならない。これを良知良能という。意拳はこれを開くことを目的として套路のくびきから逃れようとした。しかし、現在の意拳の修行者を見るとほとんどが似たような動きになっている。これは套路はないが、指導者の動きをまねているためであろう。つまり結果として套路はないが、実質的には套路があるのと同じく一定の動きのパターンから脱することができていないわけである。攻防における強さを求めて修行をするならば、強い人の動きから学びたくなるものである。しかし良知良能を得ようとするのであれば、攻防における強さに執着してはならない。それは「本来の自分」をいう例えとして「倒れそうになっている子供に思わず手を差し伸べてしまう」ことがあげられるように「本来の自分」の有する能力とは相手を攻撃する力ではないのである。ただ攻防における強さを求めることなしに意拳の練習を続けるモチベーションを維持することはほとんどの人にはできないであろう。つまり論理的には意拳では良知良能を開くことはできないということになる。

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