第九十五話 立禅と馬歩トウ功(14)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(14)

静坐では心身に負荷をかけないことを重視して坐禅との違いとすることがある。坐禅は結跏趺坐や半跏趺坐など坐法へ習熟することがひとつの大きな修行となるが、静坐ではそうしたことは意味のないこととする。やや顔を上に向けて臍のあたりで両手を向かい合わせてただ立っている王キョウ斎の写真があるが、これは混元トウを示したものとされる。この姿勢で腕を胸の高さにあげて、足を肩幅に開けばまさに「立禅」となる(太気拳では踵をあげるということも加わる)。王キョウ斎は混元トウを武術的な力である「勁」を得ることのできるトウ法としているが、本来の混元トウではそうした力を求めてはならないとする。ただ天地と一体となるだけで何かを得るために行うものではないとするわけである。これは静坐も同じで坐禅のように「悟り」を求めて行うことを否定する。そうであるから混元トウは「勁」を得るための功法ではない。王の提示している「混元」トウは既に馬歩トウ功に近づいていると見なければならない。

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