第九十五話 立禅と馬歩トウ功(6)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(6)

考えてみると「立禅」で一様に体の前にまるく腕を置くのは坐禅からの変化としてはおかしなことである。坐禅が法界定印という両手を合わせる印を組むのであれば立禅でも法界定印で行うべきではなかろうか。体の前に腕をあげる方法はある程度、修練を積まないとすぐに腕が痛くなる。しかし法界定印であればそうしたことはない。何の疑問もなく体の前に腕を置く「立禅」を立禅として示しているのは、これが太気拳の紹介した立禅に依っていることを明確に示している。立禅という語は江戸時代の儒学者の文献にも見ることのできることは冒頭でも触れたが、それは一定の形式を求めない儒教の瞑想法である静坐によるものである。また明の頃の文献とされる『万神圭旨』には立禅が詳しく記されているが、同書での立禅は坐禅と同じ手の形で下腹部あたりで手を組んでいる(一方の手で他方を包むようにする)。これは神仙道では一般的な手の組み方であるし、日本の禅宗では白隠流とされている。

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