第九十五話 立禅と馬歩トウ功(4)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(4)

臥禅、坐禅、立禅はこれらを鉱物時代、植物時代、動物時代の禅(瞑想)とすることができるかもしれない。古神道の三元でいうなら剛、柔、流である。神道では神を「柱」と数えるが、これは立っている木など棒状のものの先に神が降臨するためである。つまり神道での聖なる姿勢とは立っている姿勢になる。これは木の先に雷が落ちるところから発想されたものと思われ、先が尖ったものに神は降りるとされている(剣の先なども)。人類は立禅の時代になって初めて自由に動き回ることができるようになる。坐禅では経行という歩く瞑想があるが、これも坐禅だけでは不十分であることから考えられたものではなかろうか。東南アジアに広まった禅宗では経行を瞑想法として積極的に使うが、日本などでは長い坐禅の足のしびれを癒すものくらいに捉えられているようである。

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