宋常星『太上道徳経講義』(60ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(60ー1)
天の道は大いなるものであるが、それは「つつしみ」でもある。人の心の根源は「一」であって、二ではない。天と我とが関わるのは「一」なる善である以外にはない。人が受けている「命(生命エネルギー)」においても「一」なる善が全く働いている。もし欲望に溺れることがなければ、人は本来の心の働きを失うことはない。あらゆる生きる上での「理」は天の道に帰している。これは「天地の子ども」と称される所以(ゆえん)でもある。そうであるから天が行っている事は全て我に備わっているのである。もし、そうでなければ、正しい行動をとることはできず、徳は乱れ情欲は恣(ほしいまま)となろう。本来の真を忘れるて、天の「理」に逆らうことになろう。よく天地の「理」と一体となる、それは鬼神を知ることになるであろうか。聖人の心は天から受けた「命」の「理」を失うことはない。これは天の「命」の道でもある。天と人とは自然に一致する。そうであるならば鬼神の徳とも自然に一体であろう。この章で老子は、天下の民を安んじるには静をもって本とすることを説いている。つまり道をして天下を治めるということである。
〈奥義伝開〉冒頭の「大国を治めるは小魚(小鮮)を煮るが如し」は日本でもよく聞かれることであろう。これは細かなことにこだわらない方が良い、という意味で使われている。老子はここでも余計なこと、過度なことはしない方が良いとする。その例として鬼神が挙げられる。鬼神は狭くは祖先の霊のことであるが、広くには正体のあまり明らかでない不可思議を為す存在一般をいう。ここでは広い意味で使われていると理解してよかろう。鬼神が何をする、ということは明確に分ることではない。分からないものは無いとして良い、とするのが老子の立場である。有るか無いか分からないものは合理的に考えてどうしても「有る」と認められるのでなければ「無い」として良いとするわけである。ましてやそこに弊害の生ずる恐れがあるとするならば、そうしたものにこだわることはないわけである。