宋常星『太上道徳経講義』(58ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(58ー3)
政治が民を細かく支配しようとすれば、民は統治の不完全さを感じるようになる。
「細かく支配しよう」とは、知恵を尽くして法を使うことであり、善悪を区別すること峻厳であることである。それが「細かく支配しよう」とすることである。「不完全さを感じる」とは、為政者のやり方を驚き恐れることであり、恐れてしまうことであって、そうなればその国の政治と距離を置きたく為る、ということである。それは政治に「不完全さを感じる」からである。民の行う細かな事まで是非を決めつけたり、法令で民をコントロールすることばかりを考える。民情を考慮することもなく、時期をも考えずに、自分だけの考えを押し付けようとする。いろいろな手段を用いて無闇なことを行おうとする。何時でも思いついたらすぐに行う。こうした為政者の行為は「不完全さを感じさせる」政治となる。そして、こうした政治が行われるようになってしまうと、天下の民は、どうにかしてこうした政治の支配から離脱しようと思うようになる。どうにかしてがんじがらめの支配から逃れようとするわけである。まさにこうした事態に遭遇するのは、赤ちゃんが母親を無くしたのと同じであり、道を歩いていて悪者に出くわすようなものである。その時の驚き恐れる気持ちは、自分から発せられたものではない。当然のことに、こうした状況下では統治の「不完全さ」を感じることであろう。つまり民が「統治の不完全さを感じる」のはまったく民ではなく統治者によっている。「細かく支配しようと」すればする程、そこに「不完全さ」が生まれるわけである。そうであるから「政治が民を細かく支配しようとすれば、民は統治の不完全さを感じるようになる」としているのである。
〈奥義伝開〉統治を厳格にすると、つまり有為であればある程、本来の人の「善」は発揮されなくなるのであるが、こうした視点は儒家と道家でのおおきな違いとなっている。儒家も道家も人は本来「善」を持っているという点に変わりはない。しかし儒家ではそれを発揮させるために「礼」法がなければならないと考える。一方で道家はそうしたものがない方が良いとする。ただ儒家の中でも「礼」は決まった形にこだわるべきではない、とする考え方も根強くある。道家でも無為自然に発生している「礼」法を拒むものではない。孔子は周にあった「礼」法が最も自然であると考えたようなので、そうしてみれば儒家も道家も根本的には違わないといえる。