道徳武芸研究 「太極拳学のための太極拳史」試論
道徳武芸研究 「太極拳学のための太極拳史」試論
太極拳「学」のように武術の流派名や技法名に「学」を付ける言い方は孫禄堂が始めたものである。孫は他にも形意拳学、八卦拳学とする本を出しているし、個々の技にも手揮琵琶「学」などとして執拗に「学」を付している。これは太極拳なら太極拳で単に動きを学ぶだけではなく、その奥にあるより深い意味を学ぶべきとの考えを反映したものと思われる。しかし孫が書いているのは動きの説明に留まっている。本格的な太極拳「学」への展開は後代に託されたわけである。こうした「学」で思い出されるのは紅学である。紅学は『紅楼夢』という小説を研究する学問で、これを文学としてだけではなく、作品を通して経済や社会、民俗などを広く知ろうとするのである。このように広範囲の学びを行おうとする意図が孫の付けた「学」にもあると言えるのではなかろうか。こうしたことの前提として太極拳の歴史を技術史的に捉えるとしたら、どのようなことが見えて来るのか、を以下にその概略を述べてみることとする。
さて以下に論を展開する前提として若干の説明をしておくと「新架」「老架」などは便宜上、付したもので、一般的に使われているものではない。また「簡易」式は鄭曼青が自身の編纂した太極拳(鄭子太極拳)に付している。私見によれば陳家「太極拳」から楊家太極拳が生まれたのではなく、楊家の太極拳は張三豊の太極拳を受け継いでおり、そこから陳家「太極拳」は派生したと考えている。ここでは、それを前提として論を展開している。また太極拳には基本となる行功架があり、これが一般的に太極拳として知られている。その他にそれぞれの指導者が独自に開発する「長拳」と称する「套路」もあるが、これは指導者によっては作られない場合もあるし一定したものはない。楊露禅の「長拳」の系統を引くのが武家でこれは孫家太極拳としても知らている。一方、行功架では基本的には個々の指導者による「個性」は認められるものの理論上は大きな違いはなく、あえて「老架」「新架」とする程の違いはないので、これはあくまで歴史的な経緯の理解の一助として用いているに過ぎない。
太極拳の技術を研究しようとする場合に基本とするべきは新架(楊澄甫)であろう。太極拳の中で最も普及しているのが新架であるし、二十四式、四十八式などの新しく編成された太極拳運動の基本ともなっている。簡易式(鄭曼青)は三十七式であるが、これは太極拳思想をベースにして技の選択がなされている。鄭はこれにより張三豊の太極拳が復元できるとした。現在、張三豊の太極拳を伝える資料はないが、鄭は最も原理に忠実なのが張三豊の太極拳であろうと考えた。そして、その後には攻防の技法や鍛錬のための形などが加えられて百を越える技となったと考えたのである。この鄭の技の選択は絶対のものとはいえないが、太極拳の原理を考える場合には、おおいに参考にするべき「視点」であるとは思われる。老架(呂殿臣)は楊露禅架ともいわれる。かつては楊家太極拳は陳家太極拳から派生したものと誤解されており、楊家には現在の形より更に古く陳家に近い套路があるのではないか、と考えられていた時期もあったが、いろいろな情報が知られるようになった今日「楊家には現在の形とは大きく異なる古い套路はない」ということが分かって来た。それもあって陳家を楊家の「源流」とする見方はあまりされなくなっている。現在では陳家太極拳が技術的な太極拳の「源流」ではなく、陳家溝から太極拳は広まったとする地域的な「源流」へとシフトして来ているように思われる。
太極拳を「学」として考えようとする場合には、ここに述べている簡易式、老架、新架、それに後に触れる小架などが参考になろう。これらは原理的な違いはないが、その表現においては少なからざる差異を認めることができる。呂殿臣の伝えた楊家太極拳を露禅架とするのは王子和の系統であるが、呂の伝承は現在のところ王子和しか残っていないようなので、これを露禅架とするのには何らかの傍証が欲しいところであるが、呂の伝えた形は、早くに楊家を学んだ全祐の伝えたもの(現在の呉家の快架)と酷似した部分がある。こうしたところから呂の伝えた形が楊家の古い形であることが分かるわけである。呉家は満州族であったので全祐という名であるが、その息子は漢族風の名である呉鑑泉を使っていたので、この系統を呉家と称する。呉家は動作は露禅と息子の班侯から太極拳を学んでおり、露禅が北京で教えた最も古い形は慢架として残されていて、これが一般に呉家太極拳とされている。また快架は班侯の伝えたものがベースになっているようである。
露禅はもっぱら太極拳本来の形ではなく「用法架」を教えていた。これは一般的な拳術では砲捶と称されている。ちなみに陳家溝では砲捶のみがあり、そこに太極拳が入って来て陳家太極拳が陳長興によって編まれたとされる。楊露禅が師事したのがこの長興で、当時の陳家溝では「一族以外に拳(砲捶)を伝えない」とされていたので当時、陳家溝に流転していた太極拳を教えられたわけである。通常の拳法では基本となる功力を得るための套路(母拳)があって、それを実戦用にした砲捶が作られるのであるが、陳家溝では砲捶から陳家太極拳が生み出されることになった。陳家溝の砲捶は通背拳から考案されたものである。歴史的には陳家には五つの拳法が伝えられており(五套捶)その第一である頭套拳が太極拳であった。他には北方で広く伝承されている洪拳などもこれ含まれていたようである。陳家溝の武術の基本原理を考案したのは陳王庭であろう。一部に陳王庭を陳家「太極拳」の始祖とすることもあるが、これは直接には太極拳そのものではなくその基本となった理論を考案していたと考えられる。陳家溝では新しく入って来た武術をこの理論によって変形して学んでいたようであり、そしてその精華が砲捶であった。そして長興の頃には太極拳が入って来て、陳家太極拳が編まれることになるわけである。
陳長興は太極拳を陳家砲捶の理論で再編成をして陳家太極拳を編み出すのであるが、楊露禅は本来の太極拳そのままを伝授されてそれを伝えることになる。太極拳には基本の功を練る行功架と砲捶にあたる「長拳」とがある。露禅が北京で伝えたのは「長拳」で、後に息子の班侯は全祐に行功架を伝えた。ために呉家では二つの套路が存することになる。露禅の考案した「長拳」は他にも武禹襄に伝えられて郝為真から孫禄堂へと受け継がれた。ちなみに「長拳」は澄甫も考案しており、これは中央国術館で韓慶堂から学んだ教門拳も参考にされている。また澄甫の弟子の董英傑は快拳として「長拳」を考案している。台湾で露禅架を教えている鄧時海も快架を「長拳」を考案している。
このように太極拳を「学」として研究しようとする場合には原理に忠実な簡易式、古い「長拳」の形を伺うことのできる呉家(小架)、また古い行功架を伝える老架、現代太極拳のひとつの頂点である新架(大架)といった「視点」を持つことが重要である。こうした「視点」を持てば、いろいろな系統の太極拳を位相的に理解することが可能となって、それぞれの「形」の意図するところへの理解も深まるであろう。単なる師弟関係といった歴史的な変遷だけではなく太極拳を技術史的に捉えることも留意されるべきであろうし、昨今のように情報が急増している状況にあってはそうしたことが容易になりつつある。